
ドビュシー、リヒャルト・ワグナーについて:A beautiful sunset that was mistaken for a dawn.
ロングフェロー: Softly the evening came /with the sunset/.
ヘミングウェイ: The Sun Also Rises
KT: The sun sets to rise to set to rise to set …

ドビュシー、リヒャルト・ワグナーについて:A beautiful sunset that was mistaken for a dawn.
ロングフェロー: Softly the evening came /with the sunset/.
ヘミングウェイ: The Sun Also Rises
KT: The sun sets to rise to set to rise to set …
duplicate といえば書類の「副本」で、「複写・2倍にする」という意味もあり、これに「再び」という意味の接頭辞reを付けたreduplicationは「再重複」という、何だかくどいredundantな意味になる。(実は重複する大元をduplicantと呼び、それが繰り返されたものやそれに似たものが続いたものをreduplicantという)
シトシトpitter-patterなど、英語にも日本語にも見られる単語レベルの表現だ。日本語のそれは「畳語」と総称することもある。パタパタ、ピリピリ、ブルブル、ベロペロ、ポンポンなど、日本語では畳の目より多い。英語は完全に同じものの繰り返しをあまり好まない。pee-pee小、poo -poo大は幼児語だし、no-no禁句・禁じ手やgaga熱狂的やblah-blahベラベラ・なんとかかんとかなどは大人が使うがどこかお茶目で子どもらしさがある。chit-chatおしゃべり、hip-hop、zig-zag、flip-flopゴム草履などは”普通”である。その言語文化の特徴を崩すようなコーナーがスーパーやホームセンターに出現している。

さあ、このexact reduplicationの罠に英語国民がかかるか否か。すでにかかっているのか、I caught so many. It went hoyhoy.などと言い出すのか。そこそこ楽しみ也。
『グリーンブック』は黒人の名ピアニストと、彼が雇った白人の運転手の二人三脚映画buddy movieである。良い映画にはどこか寓話的なムードが漂うが、イソップの教訓moralのように痛みを見つめる教えで終わらないところがイカす。ロードムービーであり、車が止まるごとに起こるひとつひとつの出来事が、50年代の不条理な世相を無理なくスライスしてサプライズと共に次の事件へ運んでくれる。見終わって拍手しそうになったのは『シンゴジラ』以来か。最後にどこか暖かいところへ連れて行ってくれる映画。
個人的な感動名場面: ピアニストが運転手に早口言葉Betty Botterを使って発音矯正をしようとするところ。見所である。
これはこちらのbuddies。



スーパーのレジのカウンター。 小切手を切る人の為のサインだという。こちとら西暦と和暦のダブルでテーヘンだいと思っていたのだが、西暦のみの人々もそれなりか。年が変わったばかりだし。
21世紀になってしばらく経つが、私など19―と書き始めてしまうことが今でも結構ある。196―と60年代までいくこともある。電話は黒が家、赤が外。タイプライターを打っていた頃。氷屋が来なくなった頃。
ベースボールキャップが好きになってからもう10年近く経つ。太古、小学生の頃、絵の塾があった幼稚園の園長さんが監督になって、野球チームが結成され、ジャイアンツの広岡が好きだった私に、親が背番号2のユニホームまで作ってくれた。今はウォーキングや買い物はもちろん、家の中でも被っていることが多い。なんだか、チャーリー・ブラウンの友だちライナス君の安心毛布security blanketのようなところがあるのかもしれない。
ターゲットスーパーマーケットで見つけたのがこれだ。

「さすらっている、迷ってはいない」。これを被ってウォーキングとはしゃれている。
数日後、ぶらぶら本屋をうろついていたところ、このカードが目を引いた。なんと――

そうか。ターゲットの帽子はここから来ていたか。これといった目的もなく本屋を彷徨していた私がEureka!となった。いかすじゃないか、トールキン。
クリスマスの期間は12日。1月6日が最後になる。関東の松の内も6日あたりで松ヶ枝の供養をすることもあるが。
英語島では本土から輸送された樅の若木が12月に販売される。


そしてご用済みになったモミは、住民がそれぞれ車でゴミ集積所に運んでくる。




こうしたツリーに関し、この島では粉砕して園芸・農業用のマルチ(土壌被服材)にする。ひとつのリサイクル法ではある。
2019年1月1日 私の好きな(というより世界中の何億という人々が好きに違いない)詩人ロバート・フロストの詩がまた一編パブリックドメインに入ったという。ピューリッツァー賞4度受賞の詩人。詳しくはこちらで。https://www.washingtonpost.com/history/2019/01/01/robert-frost-wrote-this-masterpiece-about-minutes-it-belongs-all-us-now/?utm_term=.2c12a372e0cd
上のサイトにはその詩も掲載されている。シンプルな語彙と文構造、かつ深い感銘。うれしさ余った結果の大急ぎの拙訳はシンプルかつシンプル(無韻ご容赦)。
これが誰の森なのか たしか私は知っている
彼の家は 村にあるけれど
彼には見えまい 私がここで止まっているのは
彼の森が 雪で満ちていくのを見つめるために
私の小馬は 奇妙に思うに違いない
農家が一軒もないところで止めたことを
この森と 凍った湖の中間で
一年で 最も暗い夕刻に
彼は馬具の鈴を一度鳴らす
何かの間違いではと問うために
音はと言えばあとは吹き抜ける
強くない風 綿毛のような雪
森は 美しく 暗く 深い
だが守るべき約束が私にはある
何マイルも行かねば 眠る前に
何マイルも行かねば 眠る前に
以下 原詩です。
Whose woods these are I think I know.
His house is in the village, though;
He will not see me stopping here
To watch his woods fill up with snow.
My little horse must think it queer
To stop without a farmhouse near
Between the woods and frozen lake
The darkest evening of the year.
He gives his harness bells a shake
To ask if there is some mistake.
The only other sound’s the sweep
Of easy wind and downy flake.
The woods are lovely, dark and deep,
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.
近所一帯を我が物顔で歩き回る野生のニワトリferal/wild chickenたち。夜半を過ぎたあたりから鳴き出すと、あちこちの友人たちが呼応する。友だちが多いことは何よりだが、こちらにも事情がある。ホテルや市内で見ることはまずないけれど、住宅地にはそれなりに多い。一体彼らはいつ頃この島にやって来たのだろうとチェックすれば、ポリネシア人が舟内にヤケイ野鶏jungle fowlを飼いながらアイランドホッピングをしたことに始まるようだ。19世紀にはマーク・トウェインがこの島にやって来て、見事な紀行録をものしたが、そのボートの中にも鶏が鳴くシーンがあった。やはりうるさいとのことであったような。とにかくかなり前から我が物顔だったのである。この列島archipelagoの中でも特にK島は鶏の天下だ。20世紀後期のハリケーンで一般的な鶏を飼う鶏舎が多数破壊され、自由になった鶏たちはジャングルへ入り、古参の野鶏と交わって爆発的に広がったという。英語島は繁殖レベルはぐんと低いけれど、別にこちらとしては卵を頂くわけでも、取って食おうというわけでもないので、魚釣り用のタモと棒を合わせた自家製のチキンキャッチャーで捕まえ、箱に入れ、動物愛護協会に引き取ってもらう。需要はそれなりにあるようで、ランチでといっても昼時でなく牧場で、あるいは農場や家の庭で飼う目的で引き取る人もいるという。ちなみにこの列島は地殻と共に北へ日本の方面へ向かっているという。archipelaGOというくらいだから仕方あるまい。そのうち泳いで渡れる日が来るかもしれない。目を今に向け戻すと、現在までの鶏過としてはキャッチャーで2羽、協会貸与の檻trapで7羽ほどの鳥果があり、短い年末の期間に全ファミリーを愛護協会の庭に移したことになる。引っ越しは新しい文化を学ぶチャンスでもある。以下、思い出に残る鶏過を簡単に。










昨夜は花火が大量に打ち上げられ新年を迎えた。打ち上げ時間は制限があり、警察からの注意によると
Police are reminding the public that fireworks may be set off only between 9 p.m. New Year’s Eve (Friday, December 31) and 1 a.m. New Year’s Day (Saturday, January 1). (このmay beはかも知れぬではなく・・・してよいということ)
大鶏物のあと、新年の夜は雄鶏氏のcrowingなしで大変静かであった。彼らは新天地で再会。捕まった雄鶏は寂しかったのかもしれない。 引っ越しは新しい文化を学ぶチャンスでもある。 とにかくこれでEverybody is smiling!

山というか丘というかとにかくまたひとつ越えることになった。
藤山一郎のヒット曲「丘を越えて」のように超軽やかには進まなかったけれど、ポカも越えて来た。
バスケットボール部にほんの少しいたからというわけでもないが、マイケル・ジョーダン選手の言葉はことあるごとに、ことないときも、励みになっている。2019年もこれかな。
I’ve missed more than 9000 shots in my career. I’ve lost almost 300 games. 26 times, I’ve been trusted to take the game winning shot and missed. I’ve failed over and over and over again in my life. And that is why I succeed.
私はこれまでのキャリアの中で9千以上のショットをミスし、300近いゲームに負け、ゲームの勝敗を決めるショットを任されて26回ミスしています。私は人生で何度も何度も何度も失敗しています。そしてそれが私が成功した理由です。
では今年もよろしく。皆さんお元気で!

彼の『駅馬車』を見たのは60年代だったようだ。ジョン・フォードの作品は、空気やほこりを感じさせる凄さがあり、リドリー・スコットのそれと似ている。夜のシーンでは主人公たちと一緒にモニュメントバレーの冷たい空気を呼吸するような感覚を覚えている。
下積みの末にこの映画でスターとなったウェインのことば。 I suppose my best attribute, if you want to call it that, is sincerity. I can sell sincerity because that’s the way I am. という自信。
また、 Nobody should come to the movies unless he believes in heroes.という更なる自信(とnobodyをtheyやhe or sheで受けないmachismo) 。
そして、 When you come to see a picture of mine, I want you to know that I’m not going to do anything that will make you uncomfortable. I want you to know that you won’t be disappointed in me.という大自信。
『駅馬車』でブレークしたウェインは匿名的でかっこよく、罪を着せられ刑務所へ送られ脱獄したアウトローとして描かれていて、どこか高倉健のような強さと静けさを持つ存在だった。ただ健さんはその後も匿名性や静謐さを持ち続けたのに対し、ウェインは 英雄へと向かう波に乗りアジア大陸まで進みジンギスカンまで演じてしまう。
ただ、 Talk low, talk slow and don’t say too much.という彼のモットーは健さんと共通するところがある。
とまれ、NRAの宣伝マンのようなカットアウトにsurf shortsを着せたWorld Coreサーフショップのユーモアに再度Hats off!
